意識的な部分では、20歳代と40~60歳との違いはない。基本的な部分でたぶん何も変わっていない人が多数。自分は60歳だが断言できる。どれだけ歳を重ねても変わらない。年寄りも意識的には若者のまま。
SNSで、上記のようなポストを見かけました。
「意識的」というのが何を意味するのか、よく分かりませんが、文脈からすると、思考のようなもの、なのかなと思います。
自我のような意味なのかもしれません。もし自我であればそれは物心ついた後なら、何歳だろうと変わりはないと思います。
もしこの「意識的」が思考、もしくはそれに類するものだと仮定して、上記の意見の人はつまり、若くても年を取っていても考え方や判断は変化がない、と思っているようです。
三通りあると思います。
ひとつは、この人が全く成長してない、ということ。
ひとつは、20歳代にすでに完成されていた、ということ。
もうひとつは、単なる勘違い。
40歳以降は、肉体的には衰えると思います(鍛えていれば、おそらく50代半ばぐらいまでは衰えは緩やか)。
それは当然として、ものの見方や思考という部分では、自分の場合は相当な変化がありました。
ありとあらゆる部分で、考えは若いときと変わりました。
変わってない部分もあるだろうけど、変わっている部分のほうが多いと思います。
具体例をひとつあげるなら、若いときは、物事の答えは、必ずある。
考えれば答えは出る、と思っていました。
また、物事を断言する行為が、絶対的に正しいと思っていました。
物事の答えは、とりあえず出すことはできるけど、それが正しいとは限りません。
1+1は2です。
これは変えようがないです。
しかし算数以外の分野では、答えが2になるとは限りません。3でも5でも10でも-100もあり得る。
断言については、経験や知識が増えるに従って、断言できないことのほうが多いと思うようになりました。
断言すると気持ちがいいです。しかしそれは未熟さの表れだと自分は思います。
考え方の変遷の例をあげます。
「接客業を経験すれば接客業の辛さが分かってみんな接客業従事者に優しくなるはず」という意見があります。
若い頃はその通り、と思っていました。
しかし歳をとって「逆。接客業を経験したほうが、接客に関して厳しくなる」と考えは変わりました。
更に変わって、いまは「人による。根性のひん曲がった人間はざらにいる。そのような人間は、接客業を経験の有無は関係がない」
上記の考え方の変遷の、最終的な答えのようなものは、正しいとは限りません。
年を取ることは、物事に対する見方や考えが変化して面白いし、興味深いです。
しかし同時に怖さもあります。
いまの自分が正しいと考えていることが、さらに年を取ると変化するかもしれないからです。
話を元に戻して、
意識的な部分では、20歳代と40~60歳との違いはない。基本的な部分でたぶん何も変わっていない人が多数。自分は60歳だが断言できる。どれだけ歳を重ねても変わらない。年寄りも意識的には若者のまま。
だからこの考えは自分は共感はできません。
しかし人それぞれであるから、こういう人もいるんだろうなと思います。
追記
気づきました。
自分自身を頭が良い、と思っていると、ほかの考え方が理解できず、同じ処をぐるぐる回ることもあり得ます。
そういう場合は年をとっても変化がないのかもしれません。
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