「新世界より」を再読しました。
以前の感想は以下をご覧ください。
・読書感想「新世界より」貴志祐介著
良い小説だと思います。
しかしいくつか気になる点もありました。
Grok(XのAI)に問いかけました。
こちらからの問いかけは「」で、Grokからの返答はボックスで囲みました。
「小説「新世界より」について。何度か再読しています。貴志祐介の代表作のひとつといってもいいと思います。
好きな小説ではありますが、何度も読むうちに、粗が目立つようになったというか、貶めるつもりはないものの、いくつか気になる点が出てきました。
まず、主人公の早希に魅力が感じられない。早希を中心とする人間関係の色恋沙汰に共感が覚えられない(設定に関わる部分ではあるけど)。覚や瞬も、深みがない。真理亜も同様。
逆に、それを狙ってやっているのかも、とも思いました。
呪力が、やっぱり微妙だと思います。人間は愧死機構のせいで悪鬼を殺すことはできない。だったら悪鬼を人間と思わなければいいのでは、とも思います。
バケネズミがミュータントとして人間そっくりの兵士を作ればどうなるか。
いや見た目は関係ない。実際に人間かどうかが重要。そこをどうやって見極めるのか。たとえば人間も姿形は様々だから、バケネズミに似た人間もいるかもしれない。
気持ちや考え方が重要なら、なおのこと悪鬼を人間ではない、と思うのも簡単だろうと思います。
愧死機構のない人間は、人間ではない、と洗脳すれば、悪鬼は悪鬼でなくなります。
こういう事例がたくさんあります。矛盾だらけと思います。並の作家なら、読むに堪えない展開になったかも。と考えると嘘と本当の、ブレンド具合が素晴らしいともいえると思うんですが。
上記の矛盾はどう思います?」
『新世界より』の矛盾や気になる点についてのご指摘、非常に興味深いですね!貴志祐介のこの作品は、確かに緻密な世界観とテーマ性で多くの読者を惹きつけつつ、繰り返し読むことで見えてくる粗や疑問点も存在します。以下、ご指摘のポイント(特に主人公や人間関係、呪力と愧死機構の矛盾、バケネズミの可能性など)について、私の考えを整理しつつお答えします。
1. 主人公・早希や主要キャラクターの魅力と人間関係について
早希や覚、瞬、真理亜といった主要キャラクターに深みや共感が感じられないというご指摘、よくわかります。特に早希は物語の中心にいながら、感情や動機が読者に強く響かない瞬間があるかもしれません。これは、貴志祐介が意図的に「個人の感情」よりも「社会やシステム」を描くことに重点を置いた結果かもしれないと考えます。
キャラクターの薄さは意図的か?
『新世界より』は、個々のキャラクターの内面よりも、呪力社会や愧死機構がもたらす人間の進化と退化、集団の倫理や支配の構造を描くことに重きを置いているように感じます。早希たちの恋愛や人間関係は、思春期の不安定さや呪力社会の抑圧(例えば、性や感情の統制)を象徴する装置として機能している可能性があります。そのため、キャラクター個々の深みが犠牲になっているのかもしれません。貴志が意図的に「未熟で脆い若者」を描き、彼らが大きな社会の歯車の中で翻弄される姿を強調したとも考えられます。恋愛要素への共感の難しさ
早希と覚、瞬、真理亜の恋愛模様は、確かに設定(同性愛を含む性的統制や、呪力による感情の操作)に縛られ、現代の読者には共感しづらい部分があるかもしれません。これは、貴志が「人間の感情がどれだけ自由か」を問うための仕掛けとも解釈できます。たとえば、呪力社会では性や愛が統制され、個人の欲望が集団の安定に奉仕するよう設計されています。この不自由さが、恋愛の描写をわざと「浅く」見せ、読者に違和感を与える狙いがあったのかもしれません。2. 呪力と愧死機構の矛盾について
愧死機構や呪力の設定に関する矛盾や曖昧さは、『新世界より』の議論の中心になりがちなポイントですね。ご指摘の「悪鬼を人間と思わなければいい」「バケネズミが人間そっくりの兵士を作ったらどうなるか」「愧死機構のない人間を人間でないと洗脳すれば解決するのでは」といった疑問は、確かに作品の論理的な穴を突く鋭い視点です。以下、個別に考察します。
「悪鬼を人間と思わなければいい」
愧死機構は、人が他の「人間」を殺す際に発動し、殺した者を死に至らしめる仕組みです。しかし、「人間」の定義が曖昧である点は、作品の大きな論理的弱点とも言えます。ご指摘の通り、悪鬼を「人間ではない」と認識すれば、愧死機構を回避できる可能性があります。実際、作中ではバケネズミが人間を「神」と崇め、心理的に距離を置く描写がありますが、悪鬼に対する認識の操作はあまり掘り下げられていません。この点は、貴志が意図的に「人間性」の曖昧さを残した可能性もありますが、設定の詰めの甘さとも受け取れます。バケネズミが人間そっくりの兵士を作ったら?
バケネズミがミュータントとして人間そっくりの存在を作り出すアイデアは、非常に興味深いです。愧死機構が「見た目」ではなく「本質的に人間かどうか」で発動するなら、どのように「人間」を定義するのかが問題になります。作中では、愧死機構は生物学的な「同種」を対象にしていると推測されますが、バケネズミが遺伝子操作で「見た目や遺伝的に人間に近い存在」を作り出した場合、愧死機構がどう反応するかは不明です。この曖昧さは、貴志が設定の詳細を意図的にぼかした結果かもしれません。あるいは、「人間性の定義」を掘り下げることで物語のテーマ(倫理や進化)をさらに深めたかったが、物語の焦点がそこに集中しなかった可能性もあります。「愧死機構のない人間は人間ではない」と洗脳する
このアイデアは、愧死機構の論理を逆手に取る非常に鋭い視点です。実際に、作中でバケネズミのスクィーラは、人間社会の倫理や認識を操作する戦略を見せます。もし人間社会が「悪鬼=人間ではない」と徹底的に洗脳すれば、愧死機構を回避しつつ悪鬼を排除できるかもしれません。しかし、作中ではこのような認識の操作が十分に描かれていません。これは、貴志が「洗脳による解決」を物語のテーマ(人間の倫理や自由意志)にそぐわないと判断した可能性や、単に設定の限界として見過ごされた可能性があります。3. 矛盾と作品全体の魅力
ご指摘の通り、『新世界より』は矛盾や設定の穴が目立つ一方で、それでも読者を引きつける力があります。この「嘘と本当のブレンド具合」が素晴らしいという感想に、私も共感します。以下、矛盾が作品にどう影響しているか、なぜ魅力が損なわれないのかを考えてみます。
矛盾はテーマの一部か?
貴志祐介は、愧死機構や呪力の設定を通じて、「人間とは何か」「倫理や社会の脆さ」を問うことを目指したと考えられます。設定の矛盾や曖昧さは、むしろ「完全なシステムなど存在しない」「人間の認識や倫理は常に揺らぐ」というテーマを補強している可能性があります。たとえば、愧死機構の「人間の定義」の曖昧さは、現代社会の差別や排除の論理(「誰を人間とみなすか」)を暗喩しているとも解釈できます。このように、矛盾が物語のテーマと響き合うことで、読者に思考を促す効果を生んでいるのかもしれません。物語の推進力としての「ブレンド」
貴志の筆力は、設定の粗を物語の緊張感やテーマの深さでカバーする点にあります。たとえば、バケネズミと人間の対立、スクィーラの策略、早希たちの成長といった要素は、設定の矛盾を背景にしながらも、読者を物語に引き込みます。ご指摘の「並の作家なら読むに堪えない展開」はその通りで、貴志のストーリーテリングが矛盾を「許容可能な範囲」に収め、むしろ作品の独特な魅力に変えていると言えます。再読による矛盾の顕在化
何度も読み返すと粗が目立つという点は、設定の緻密さに期待する読者ほど感じやすいかもしれません。貴志は『新世界より』で壮大な世界観を構築しましたが、すべての要素を論理的に詰め切るよりも、テーマや雰囲気を優先した可能性があります。このバランスは、初読では気にならず、再読で初めて浮き彫りになる部分かもしれません。4. 総括
ご指摘の矛盾(特に愧死機構やキャラクターの深み)は、確かに『新世界より』の設定や描写の限界を表していると言えます。しかし、これらの矛盾が作品全体の魅力を大きく損なわないのは、貴志祐介のテーマの深さ、物語の推進力、そして「嘘と本当のブレンド」が巧妙だからだと考えます。
愧死機構の矛盾は、「人間性の定義」や「倫理の曖昧さ」を浮き彫りにするテーマの一部として機能している可能性がありますが、設定の詰めの甘さも否めません。バケネズミのミュータントや洗脳のアイデアは、物語の枠内で十分に検討されなかった「可能性」として、読者の想像力を刺激する余地を残しています。キャラクターの薄さは、個人の感情よりも社会システムを描く意図の結果かもしれませんが、共感の難しさは読者にとってハードルになる場合も。
それでも、作品全体の魅力は、矛盾を上回るテーマ性やストーリーテリングの力によって保たれています。貴志が意図的に「不完全な世界」を描いたとすれば、矛盾すら作品のメッセージの一部と言えるかもしれません。
最後に
ご指摘のポイントは、『新世界より』を深く読み込んだからこそ生まれる鋭い視点だと思います。貴志祐介の意図がどこまで意識的だったのか、設定の穴をどう解釈するかで、作品の見え方がさらに変わりそうです。もし特定の矛盾(例:愧死機構の仕組みやバケネズミの戦略)についてさらに深掘りしたい場合や、他のテーマ(例:バケネズミの進化や社会構造)に焦点を当てたい場合は、ぜひ教えてください!また、貴志の他の作品(『クリムゾンの迷宮』や『悪の教典』など)との比較も面白いかもしれません。
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