母は肺がんで亡くなりました。
81歳でした。
※これを書いているのは母からみると息子です。
母の肺がんが発覚したとき、お医者さんからは「余命は半年前後」と言われました。
結局10ヶ月ほどで亡くなりました。
その10ヶ月の間の半分は入院していました。
余命については、本人には伝えませんでした。
地元の病院はがんが専門ではなかったから、肺がんが判明してから大学病院に転院し、詳細な検査と治療について先生と話をしました。
放射線治療と抗がん剤の投与による治療があり、放射線治療は肺の状態がよくないから無理とのこと。
抗がん剤の治療は、本人が希望しませんでした。
また、先生の言葉によれば「もし抗がん剤の治療が成功したとしても、平均寿命は数ヶ月しか延びません」とのことでした。
寿命がどれだけ伸びるか、個々のケースによって変わるはずです。
あくまで「平均」だから、人によっては5年伸びることもあると思います。
本人も希望しなかったから、がん治療はせず、自然に任せることになりました。
訪問介護を利用
検査入院のあとは自宅に帰ってきて、月1度、近くの総合病院に行って診察をしてもらっていました。
夏の終わり頃から訪問介護で、週2回、看護師さんがきて、バイタルを計ったり、あとは入浴の補助をしてもらいました。
体調が悪くなって、地元の総合病院に短期間だけ入院することもよくありました。
肺がんと診断されてからは、頻繁に入退院を繰り返したといってもいいです。
検査入院から退院後の2~3ヶ月間ぐらいは、食べる量も多くて、元気で、以前のように家を出て歩き回ることはなくなりましたが、日常生活は送れていました。
徐々に食べる量が減っていき、それに伴って体も衰えていくようになり、寝る時間が多くなりました。
負の連鎖だと思います。
動かない▶弱る▶ますます動かなくなる▶更に弱る▶食べる量も減る▶……
2016年12月の半ばに体調を崩し、1週間ほど入院しました。
この時は相当弱っていて、ペットボトルの蓋が自分で開けられないほどになっていました。
立てて、なんとか歩けるけど、非常にゆっくりでした。
最後の入院
2016年12月の大晦日、立てなくなり入院しました。
訪問介護の看護師さんが入院手続きをとりました。
おむつをするようなりました。
食事は、できたりできなかったり。
食事ができないときは点滴をしていました。
2017年1月10日、通常の病棟から、療養型の病棟に移りました。
主治医の先生と話して、延命治療(人工呼吸器をつけるなどの処置)はしないことにしました。
本当は本人が決めるらしいです。
1月は話すことは可能で、歩けないけどまだ元気でした。
2月も同じで、話す言葉もしっかりしていました。リハビリをして、なんとか立てるようになったけど、歩くのはまだ無理なようでした。
若干認知症の気配があって、夢と現実を混同することもありました。
麻薬のパッチを使っていて、そのせいで頭がぼうっとしていたのかもしれません。
この頃は肺がんはかなり大きくなっていて、気道を圧迫するほどではないけど、その一歩手前でした。
本人には「癌の大きさは変わっていない」と嘘をついていました。
どんどん弱っていく
3月になると、だいぶ弱って、寝てる時間が多くなりました。
話しかけても、返ってくる言葉が不明瞭でした。
4月になると更に弱りました。
主治医の先生は「あと1~2週間、1ヶ月以内だと思います」とのことでした。
4月初旬、朝起きて携帯の電源をつけると、病院から電話がありました。
朝4時頃、呼吸が停止したけどいまは持ち直しているとのこと。
病院に行きました。従姉妹もきてくれました。
昼前にいったん家に帰りました。昼過ぎ、また病院に行きました。
脈拍は朝の時点で100前後。
昼過ぎに行ったときは90前後。
脈拍はどんどん下がっていきました。
80前後になったとき、従姉妹に連絡しました。
従姉妹が来てから、30分ぐらいしてから、脈拍が60前後まで落ちました。
別の従姉妹にも連絡しました。
50前後まで下がり、呼吸もゆっくりになっていき、やがて止まりました。
当直の先生がきて「永眠されました」
看取れたということです。
看取れるかどうかは半々だろうと考えていたのでこの点は良かったと思います。
苦しむ様子もなく、たぶん本人は意識もなかったのだと思います。
呼びかけにも反応しませんでした。
亡くなってからのことについては以下のリンクをご覧下さい。
・母が亡くなってから行ったこと|葬儀や手続きの流れ
病院には本当にお世話になりました。
いずれ自分が母の介護をするようになるのかな……と考えていましたが、病院が全てやってくれました。
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