愛とは何か|ヴィンランドサガ

 愛に関して思いつく限りをざっとですが書き出してみます。 

 愛する(愛される)
 愛の告白
 今でも愛してる
 愛と青春(「の宝塚」または「の旅立ち」)
 愛情を持って育てる(育てた)
 愛の鞭
 愛がある(または愛がない)
 1万年愛す(『恋する惑星』)
 愛を知らない(愛を知る)
 愛は勝つ(楽曲)
 愛の結晶
 などなど。

「愛」というと、何か崇高なもの、特別なもの、唯一のもの、みたいなイメージを持ってしまいます。

 映画「フォレストガンプ」の中に、こんな台詞があります。
 ガンプがベトナムに出征する前、幼なじみの女の子に「でも君を愛してるんだ」
 幼なじみのジェニーは「愛が何か分かってないのに」と答えます。

 三谷幸喜監督作品「ラヂオの時間」の冒頭、ラジオドラマのリハーサルが行われています。
 律子と虎三が結ばれる場面、律子は丸山神父の言葉を思い出します。
「愛の力を信ぜよ。愛を信じるもののみ、愛によって救われる」
 ――「ラヂオの時間」はコメディなので、それを差し引く必要はありますが。

 KANさんの楽曲では「心配ない、君の想いはきっと届く、どんなに困難でもやめないで。信じれば必ず最後に愛は勝つ」なんて歌われています。
 正直、大嫌いな歌の1つではありますが、KANさんは一流のアーティストだと思っています。
 あの歌に関しては熱烈な支持者がいる一方、一部酷評される向きもありますが、KANさんにしてみれば「ただの歌のひとつに過ぎない」と思っているのではないかと想像します。
 歌のひとつになんでそんなに目くじらを立てるのか? みたいな。
 KANさんにしてみれば、楽曲を制作して発表した、それだけのことに過ぎません。
 おそらくですが、本人はそんなに売れるとは思っていなかっただろうし、時代を超えて歌い継がれるようなものになるとも思っていなかったのではと考えます。勝手な推測ではありますが。

 松本人志さんがお酒の席で「俺のこと、本気で愛してる人いるかな?」なんて言葉を漏らしたこともあったとか。

 アノニマスダイアリーで以下のような愛に関しての駄文もあったりします。
ハチャメチャに愛されて育った
 ▲これに関しては愛と言うより単純に甘やかされて育っただけのように思えます。
 愛と言えば愛に違いはないのだろうけど、千尋の谷に落とすの逆バージョンであって、本人のためになるのかなとの疑問も抱きます。

 映画やドラマ、漫画や小説などの作品でも、愛を知らない主人公みたいな設定は珍しくありません。
「愛って何?」みたいな問いかけで終わる場合が多くて、答えまで出している作品は少ないと思います。

 幸村誠さんの漫画「ヴィンランドサガ」(第6巻)には愛についての語る場面があります。
 結論から書くと「愛の本質は死であり、通常の言うところの『愛』は差別に過ぎない」とされています。

 最初に読んだとき、ふうんぐらいにしか思えませんでした。
 何度か読むうちに、また自分が年齢を重ねたせいか、言わんとしたいことが理解できるようになりました。
 前作「プラネテス」にも「愛」が出てきますが「プラネテス」の「愛」は、冒頭で書いたような、装飾された愛であり、誇張された、高尚な何か的なものに描かれているように感じます(自分の読む力が低すぎて誤解している可能性もありますが)。
 しかもプラネテスの結末は「だけど愛し合うことはやめられないんだ」という独白で終わります。
 若干違和感がありました。

「ヴィンランドサガ」の6巻37話「愛の定義」……の前の36話の最後から少し書き起こしてみます。

クヌート「…夢を見た。ナグナルの夢だ。
別れを告げられた。
死んでまで律儀な男だ。
もうこの地上に、わたしを愛してくれる者はいなくなった」

神父「それは大いなる悟りです。
だが惜しい。
ラグナル殿のあなたの思いは愛ですか?
彼はあなたの安全のために
62人の善良な村人を見殺しにした。
殿下、愛とは何ですか?」

 ここから37話「愛の定義」
 トルフィンとトルケルの決闘場面は割愛。

クヌート「…愛とはなにかだと?
ラグナルは私を愛していなかったというのか?」

神父「…はい…」

クヌート「…ならば問うのは私のほうだ。
ラグナルに愛がないのなら、正しく愛を体現できる者はどこにいるのだ」

神父「そこに居ますよ、ホラ」と死体を指さす。
神父「彼は死んで、どんな生者よりも美しくなった。
愛そのものといっていい。
彼はもはや憎むことも殺すことも奪うこともしません。
すばらしいと思いませんか?
彼はこのままここで打ち捨てられその肉を獣や虫に惜しみなく与えるでしょう。
風にはさらされるまま雨には打たれるまま、それで一言半句の文句も言いません。
死は人間を完成させるのです」

クヌート「…愛の本質が…死だというのか」

神父「はい」

クヌート「…ならば親が子を、夫婦が互いを、ラグナルが私を大切に思う気持ちは、一体なんだ?」

神父「差別です。
王にへつらい、奴隷に鞭打つこととたいしてかわりません。
ラグナル殿にとって王子殿下は他の誰よりも大切な人だったのです。

おそらく彼自身の命よりも…
彼はあなたひとりの安全のために、62人の村人を見殺しにした。
差別です」

クヌート「…そうか。
わかってきた…
まるで、霧が晴れていくようだ…
この雪が愛なのだな」

神父「…そうです」

クヌート「あの空が、あの太陽が、吹きゆく風が、木々が山々が…
…なのに…
なんということだ…
世界が…神の御技がこんなにも美しいというのに…
人間の心には愛がないのか。

神父「…私達が…このような生き物になってしまったのは…遠い祖先が、神に背き罪を犯したせいだといわれています。
私達は楽園から追放されたのです」

 書き起こし終わり。

 ある辞書から引用します。
『―あい 愛―
親兄弟のいつくしみあう心。ひろく、人間や生物への思いやり。
男女間の愛情。恋愛。
大切にすること。かわいがること。めでること。
〔キリスト教〕 神が、全ての人間をあまねく限りなく いつくしんでいること。アガペー。
〔仏教〕 渇愛、愛着(あいじゃく)、愛欲。「十二因縁」の説明では第八支に位置づけられ、迷いの根源として否定的に見られる』

 ヴィランドサガの「愛の本質は死であり、通常の言うところの『愛』は差別に過ぎない」について、前半については間違ってはいないし正しいけど、結局は極論と思います。
 後半については、客観的な見方なのかなと思います。

「愛は勝つ」をヴィランドサガふうにいうと「差別は勝つ」 
 ばかばかしい響きです。
「差別は勝つ」なんて思いっきり主観。
 主観に過ぎません。
 自分が好きだから愛する気持ちが芽生える。
 それは客観的には差別に過ぎません。

 しかし世の中の人の多くが、愛は高尚なものである、特別なものだと考えるなら、それはそれで一理あるのかなとも思います。

 たとえば、血液型と性格の関係は、科学的には証明されていません。
 日本だけが、血液型と性格の因果関係の文化が根付いているようです。
 因果関係がないと分かってはいても、O型はおおざっぱで、B型はずぼらな部分があって A型は神経質で AB型は二面性が ……と考えてしまうし、当の本人も人知れず、そのように振る舞ってしまう部分があるわけで、一種の洗脳、刷り込みではありますが。

 広義の意味では、思いやりも愛に変換できるので、愛という言葉は、使われる文脈によっても変わってくると思います。

 ということで、自分は愛の意味には3通りがあると思います。
 思いやり。
 ある種の思い入れ(差別)。
 特別で高尚な(と思い込んでいる)愛。

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