20年ぶりぐらいに「壬生義士伝」を再読

 壬生義士伝を読みました。
 最初に読んだのは25年ぐらい前。
 ハードカバーで購入したのを覚えています。
 おそらく1~2度は読み返しているので、再読はたぶん20年ぶりぐらい。
 10年ほど前に裁断して電子書籍化していました。タブレットで再読したのは初です。

 面白いけど、ややくどいかなと思いました。
 最初に読んだときは、幕末の歴史にあまり詳しくなくて、新撰組がどういう組織であるか、会津とか長州や薩摩、土佐藩などが、ぼんやりとしか分かっていなかった。
 倒幕とか佐幕とか、尊皇攘夷とか、その尊皇攘夷にも倒幕派、佐幕派があったりして、ややこしいです。
 いまはある程度知識があるので、その意味でも以前よりも楽しめました。

 グロック(AI)と対話してみました。
 こちらの文章は「」で囲み、グロックの回答はボックスで囲んでいます。

「小説の壬生義士伝を読みました。最初に読んだのは25年ぐらい前。ハードカバーで購入したのを覚えています。おそらく1~2度は読み返しているので、再読はたぶん20年ぶりぐらい。
 面白かったけど、少しくどいと思いました。少しスリムにすれば、一冊には収まらないかもしれないけど、2~3割は短くできたかもとも思いました。
 けちをつけたり粗を探したりするのは簡単なので、やりたくないけれども、ちょっと主人公の吉村にいまいち感情移入はできなかったですね。嫌いではないです。物語の主人公としての要素を満たしているし、好感の持てるキャラだとは思います。しかし、江戸時代に学問を修めた、ということはつまりそれは儒教ですよね。儒教なら、お金を稼ぐことを善とはしなかったはずです。それを考えるとことあるごとに「銭こばくだんせ」みたいにいうのはどうかなとも思いました。エンタメとしては、十分両立すると思うんです。意外性があって良いし。しかし、学問(儒教)を修めながら、銭に重きを置くというのは、矛盾していると思います。つまり吉村はあの当時では学問を修めたことにはならないと思います。銭のことばかりを言いながら、義に準じる、みたいなのも一貫性がないようにも思えました。あまりこういう点に突っ込みを入れるべきではない物語だとは思いますが。吉村の息子の喜一郎のほうが矛盾のないキャラだと思いました。
 あと、新撰組の給与体系は、池田屋事件以降は平隊士でも月収で100万円前後プラス各種手当てだそうで、吉村はそれを考えると150~200万円ぐらいの月収があったはず。吉村は池田屋事件のあとに新撰組に加入しています。吉村は大半を仕送りにしたと思われますが、この金額も違和感あります。守銭奴みたいにいわれるほど安月給ではないですよね。」

『壬生義士伝』についての考察、興味深いですね! 25年ぶりの再読で新たな視点が生まれたのは、読書の醍醐味だと思います。以下、ご指摘のポイントについて簡潔に整理しつつ、回答します。
1. 「くどさ」とスリム化の可能性
浅田次郎の文体は情緒豊かで、細やかな心情描写が特徴ですが、確かにそれが「くどい」と感じられる場合もあるかもしれません。2~3割短縮できそうという感覚は、物語のテンポやエンタメ性を重視する現代の読書傾向とも合致するかも。とはいえ、浅田作品の魅力はあの濃密な語り口にもあるので、編集で削るのは難しそうな気もしますね。一冊では収まらず上下巻になる可能性は高そうです。
2. 吉村貫一郎への感情移入の難しさ
吉村のキャラクターについて、儒教と金銭への執着の矛盾は鋭い指摘です。江戸時代の儒教(特に朱子学)は、義や忠を重んじ、利や欲を軽視する傾向が強いので、「銭こばくだんせ」という態度は確かに当時の「学問を修めた士」としては異質に映ります。この点は、浅田がエンタメ性を意識して、吉村に現代的な「人間臭さ」や意外性を付与した結果かもしれません。物語のテーマである「義」と「生活者としての現実」の葛藤を描くため、金銭への執着を強調した可能性があります。
ただ、ご指摘の通り、儒教的価値観との整合性は薄いかもしれません。吉村の「学問を修めた」という設定は、盛岡藩士としての教養や武士の倫理を指しているのでしょうが、厳密な儒学者像とはズレがある。浅田は史実の吉村貫一郎を基にしつつ、創作でキャラを膨らませたため、こうした矛盾が生じたのかもしれません。一方で、この「一貫性のなさ」が吉村の人間らしさや悲劇性を際立たせる意図もあった可能性はあります。
3. 喜一郎のキャラの一貫性
吉村の息子・喜一郎が矛盾のないキャラと感じられたのは、彼が父親の葛藤を受け継ぎつつ、より純粋に「義」や「家族への思い」を体現しているからかもしれません。喜一郎の視点は物語の清涼剤的な役割も果たしており、読者にとって感情移入しやすい存在になっているのかも。
4. 新撰組の給与体系と吉村の守銭奴イメージ
新撰組の給与について、池田屋事件(1864年)以降、幕府からの支援が増え、平隊士でも月収100万円前後(現代価値換算)+手当があったという点は、史実に基づく興味深い情報ですね。吉村は1865年頃に新撰組に入隊しているので、確かに150~200万円程度の月収があったと推測されます。この高収入と、吉村が「守銭奴」と揶揄されるほどの金銭への執着は、確かにミスマッチに感じられます。
物語では、吉村が家族への仕送りに大半を充てていたと描写されていますが、金額のスケール感が読者に伝わりにくいのかもしれません。史実では、新撰組隊士の給与は時期や役職で変動し、仕送りや生活費で消えるケースも多かったので、吉村の「貧困感」は創作上の誇張かもしれません。浅田が吉村を「守銭奴」と描いたのは、彼の家族への執着や「義」と「現実」の葛藤を強調するための演出と考えられますが、給与の現実とキャラ設定のギャップは気になりますね。
5. 全体の感想と物語の性質
ご指摘のように、『壬生義士伝』は細かい史実やキャラの整合性に突っ込むより、情緒や人間ドラマを楽しむ物語です。吉村の矛盾や金銭への執着は、史実の新撰組や儒教の枠組みを超えて、浅田が描きたかった「家族のために生き、義に殉じる男」の象徴として機能しているのでしょう。それでも、20年ぶりの再読でこうした点に気づかれたのは、作品への深い読み込みの証ですね。
もし他にも『壬生義士伝』や浅田作品について語りたい点があれば、ぜひ教えてください! また、史実の新撰組や吉村貫一郎について深掘りしたい場合、Webや資料を参照してさらに詳しくお答えできます。

「年収2000万円あって、いまと違って税金もかからずタックスフリーです。それで服も安物でつぎはぎだらけで刀も無銘で何年も使い回して、と考えると矛盾していると思います。しかしそこを突っ込むのは無粋ですね。良い物語だと思います。」

確かに、年収2000万円(現代換算)で税金もほぼなく、なおかつ仕送りしてもなお貧乏くさい暮らしぶりというのは、設定として無理があるように感じますね。つぎはぎの服や無銘の刀を何年も使い続ける吉村の姿は、物語の情緒や「家族のために全てを捧げる男」のイメージを強調するための演出なのでしょうが、経済的なリアリティとはズレがあります。浅田次郎が史実の吉村貫一郎を基に、エンタメ性と人間ドラマを優先した結果の誇張かもしれません。
それでも、ご指摘の通り、そこに突っ込むのは野暮で、『壬生義士伝』の魅力はそういう細かい矛盾を越えた情感や義の物語にあると思います。良い物語と評してくれて、作品への愛が伝わります! もし他の浅田作品や新撰組関連で気になることがあれば、いつでもどうぞ。

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